【 2014年12月12日 Mail Magazine 22 】
めるまがエッセイ ❤ Sophia のつぶやき ❤ 天海あまみ道子みちこ
「12月を一緒に過ごす〝友だち〟」
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12月も半ばになり、一年が終わることを感じると、〝時の流れ〟を感じないわけにもいきません。美しい色彩を見せてくれた紅葉もいつのまにか消え、クリスマスのイルミネーションがきらびやかな夕闇を歩いていると、一年の疲れと…気怠い〝諦め〟が、親しい友だちのように話しかけてきたりするのです。
「やあ・・・久しぶりにゆっくり話ができるね。話しかけても君になかなか気づいてもらえない一年だったよ」
なんて、古い友だちのような感じのよさで、私の横を歩いているではありませんか。〝一年の疲れ〟も〝あきらめ〟も、年々、成長し、私よりもひとまわり大きくなっているようです。
「ほんと、久しぶり!お疲れ様はちょっとふとったみたいだし、あきらめ君はだいぶ背丈が伸びたみたいだね」
私は極力、控えめに挨拶と感想を伝え、右側を歩く〝お疲れ様〟と左手やや前方をあるく〝あきらめ君〟を伴って、この季節を過ごす覚悟を決めたのでした。
「太ったみたいだけどぷよぷよしていて柔らかい、背丈がのびて寄りかかれそうな頼もしさ…一緒にいると温かいよ!」
こう言ってみると、急にスローダウン…ゆっくりと歩いている私でした。〝時〟は焦れば焦るほど、瞬く間に過ぎ去ってしまうもののようです。スローダウンの〝妙薬〟は、もしかしたら、さまざまなネガティブな〝思い〟…疲れや諦めや、悲しさや失望、…なのかもしれません。
除夜の鐘の音とともに「さよなら」するつもりではありますが、一年の残りの日々、しばし…ただ古い友だちと一緒に、ゆっくりと〝時〟を味わうのもいいかもしれません。古い友だちは〝時の流れ〟を共に生きてきたことをいつも感じさせてくれますから…☆
素敵なカップルが目立つホリデーシーズン、パートナーとの関係に悩む方にとってはとても辛い季節でもあります。こんな時こそ、その〝辛さ〟とじっくりつきあってみる選択をすることも、自分自身に対する思いやりです。
一目散に逃げ出すと、どんどん大きくなって、圧倒的なパワーで追いかけてくるのが、〝えたいが知れないお化け〟の恐ろしさというもの…ですよね…☆
〝失恋のトラウマ君〟や〝嫉妬の炎君〟〝お姫様願望の散々残骸様〟〝とらぬ狸の皮算用様〟〝玉の輿or 逆玉ころりん様〟〝怨恨の火種さん〟〝悔しいシクシクさん〟〝怒髪天衝くツク様〟・・・などなど…ゆっくりと共に時を過ごしていくうちに、『フナッシー』のような愛らしさを見せてくれたり…☆ クリスマスの奇跡を祈ると…ほんとうに『フナッシー化』したりするかもしれません。
一年の終わりの時間、パートナーとの〝関係のなかの私〟とお付き合いする・・・というのはいかがでしょうか? きっと来年2人の関係に福の神を呼びこんでくれると思いますから。
「カップルセラピー」は♡〝私〟から一人で!セラピーに来て☆まず!体験してみるのがお勧めです。
ゲシュタルトセラピスト❤よもやま話
◆◆◆人間関係の怪◆◆◆ Ho-etsu OKADA
フリッツ・パールズは、ゲシュタルトセラピーが「接触境界」のことをするセラピーであると言っています。接触境界というのは、自分の内側の世界と外側の世界を隔てる境界線です。この境界線に不具合があると、私たちは不自由さやきゅうくつさを感じて、外の世界と健全な接触ができなくなります。
たとえば、「私」が「あなた」と関わっているときに、「私」の境界線で投影と呼ばれている不具合が起きているとしましょう。投影とは、たとえば「私」が「あなた」のことを嫌いなのに、「私は、人を嫌うような心の狭い人間じゃない。嫌いだなんて自分が感じるのはあり得ない! そんな自分はダメ!」と思っていると、人を嫌っている自分を認めたくないので、その感情を「私」じゃなくて「あなた」が感じている(「あの人が私を嫌っている」)ことにして、自分が安心する
という心のメカニズムです。「あなた」の方は嫌いという感情を持っていないのですが、そのような投影が起きているときは「私」が勝手に「あなたは私を嫌いなんでしょ」と思い込んで関わるので、関係がギクシャクしてしまいますよね。
カップル(夫婦とか恋人)は、お互いに「ずっと一緒にいたいね」と思っている関係です。その関係は「愛という絆」で結ばれているわけです。…というか、愛という絆で結ばれているはずです。〝はず〟というのは、本人たちが「愛という絆」と信じているのに、実は「罠という絆」で結ばれていることがあるからです。つまり、勘違いですね。たとえばDV(家庭内暴力)で結ばれている夫婦など、その典型例です。あるいはまるで主従関係のような夫婦や仮面夫婦などもそうです。
人間関係というのは化学反応のようなもので、関係が生まれると自動的に磁力のようなものが働き始めます。それを私は「関係磁力」と呼んでいます。この磁力が愛情である場合もあれば、罠である場合もあるのです。
愛情で結ばれていると信じているカップルが、実は罠という絆で結ばれている場合、結局はお互いが「いつもの嫌な感じ」を体験する関係のパターンの中で生活するようになっていきます。
私たちは、今、カップルセラピスト養成講座を開催しています。カップルセラピーは、そのような罠の呪縛を解きほぐすセラピーです。セラピスト養成講座のカリキュラムの中に、接触境界のことをするゲシュタルト・セラピーを入れていますが、そういう理由があるのです。また、私たちオリジナルのカップル心理テストが3つ用意されてますが、その中のひとつは接触境界の状態を診断するものになっています。
XV The Devil ~悪魔の謎~
思えば、昨年クリスマスシーズンはこれまでで一番キンキラ♪キララのイルミネーションがまぶしく、にぎやかでハデハデな雰囲気がさらに時の流れを加速させてしまったような気がします。
震災以来の節電なんか過去のものです。「もったいないお化け」も疲れが出てしまったのか人気凋落、絶滅危惧種としての保護を求めたくなるほどです。
ダーウィンの進化論のごとくに、オリンピック招致に成功してからは「おもてなしお化け」がニコニコと笑顔をふりまいて福を呼び、ソチオリンピック、大雪…あっという間に月日が流れていくのですから不思議です。辛い1日は長いのに一年はあっという間、一生はもっと短いのかもしれませんね。
そんなことを考えていると「悪魔」のカードをとても身近に感じてしまいます。
背後に立っているのが「悪魔」でも天使でも、法皇さまでも、PCでも、会社でも、「もったいないお化け」でも、「おもてなしお化け」でも、振り向かなければなんだって大丈夫です。しかもしっかりとした絆?鎖でつながっているのですから、まあ、居心地も悪くないのかもしれませんね。現実の世界でもこんな絆をよくみかける気がするのです。人格と人格のふれあいがなくなっている
世界、「コントロール」という関係をこんなにも鮮やかに「悪魔」のカードとしてさりげなく描いていることに痛快な感じさえしてしまいます。
「コントロール」という絆でつながっている時、私たちはいつのまにか「人格」ではなく「モノ」になり、「モノ」になってしまうと、 「悪魔」の手先として、しだいに周囲をモノ化、非人格化して「コントロール関係」を広げていくのでしょうね。
© 2014 Sea and Sky Counseling Institute
18. 『創造的無関心』?!
前回まで、実験の提案について書いてきました。その中で「逆の提案」のことを述べました。ワークをしている人が「たぶん、私は○○が好きなんです」と、本当に好きなのかどうかよくわからない様子で言っているようなとき、ファシリテーターが「逆に『私は○○が嫌いです』と言ってみてください」と提案するかもしれないのです。これは、「好きなんです」「嫌いなんです」と対比することによって、自分の感覚がよりはっきり確かめられるからだ、とも書きました。でも実は、理由はそれだけではないのです。
フリッツ・パールズが影響を受けた哲学者の一人に、ザロモ・フリートレンダー(Salomo Friedlaender, 1871-1946)という人がいます。あまり知られていない哲学者ですが、「子どものためのカント」という、カント哲学を子どもにもわかるように書かれた本が日本語に訳されています。
パールズがフリートレンダーから学んだのは「創造的無関心」という概念でした。そして、それをパールズ流に「肥沃な無」という考え方に翻訳したようです。
この考え方に沿うと、「私は○○が好きなんです」とクライエントが言うのをきいたとき、ファシリテーターは瞬間的に心の中に次のような絵を描きます。
嫌い 好き
「0」
これは単純に、「クライエントが『好き』といったら、その対極に『嫌い』があるよね」というほどの意味です。
クライエントが「私は○○が好きなんです」と言うのを聞いたファシリテーターは、「そうか、この人は○○が好きなんだ」と、その気持ちを素直に丸ご鵜呑みにすることはしないということでもあります。丸ごと鵜呑みにしてしまうと、その瞬間から「好き」を前提に話を聴くようになってしまい、上の図の「0」から右だけの世界からクライエントの気もちを見がちになります。
でも、人の心の中では「陰」と「陽」が対になっていることが多いようです。ですから、ファシリテーターの視点が「0」から右だけしか見なくなると、対になっている左半分を忘れてしまい、クライエントの心の全体像を見失う可能性がありそうです。それを避けるためには、「私は○○が好きなんです」という言葉をきいたとしても、ファシリテーターはクライエントと一緒に右側半分の世界に行ってしまわずに、「0ポイント」に立っていることが必要になります。それが、フリートレンダーが言う「創造的無関心」という立ち位置です。
「でも、ファシリテーターが、クライエントの気もちを疑ってもいいんですか? クライエントを信じて、ちゃんと気持ちを共感的に受けとめることが大切なのではないですか?」という質問が聞こえてきそうです。
それはその通りです。ファシリテーターがクライエントの気もちの流れにそっていないとワークは成り立ちません。
でも、「私は○○が好きなんです」と言うのをきいた時に、ファシリテーターがその言葉だけを聞いて「あぁ、そうか。この人は○○が好きなんだ」と理解してしまっては、その人の気もちの全体を受けとめていることにならないのではないでしょうか。
言葉は、クライエントの気もちのほんの一部を表現しているだけ。なので、顔の表情、身体の動き、声の表情が発信していることを注意深くキャッチするのが、ゲシュタルトセラピーの基本です。ファシリテーターの気もちが、上の絵の右半分だけに傾いてしまうと、身体が発信している気もちに気づかなかったり、見誤ってしまう可能性だって大きくなるのです。つまり、〝言葉を信じない〟のではなく、目の前の人の〝全体〟が何を発信しているかをまっすぐに受けとめるために、ファシリテーターが「0ポイント」の創造的無関心の位置に立っていることが必要だということになるのです。
そこにいるとすれば、「○○が好きなんです」という言葉をきいた時に「逆に、『○○が嫌いなんです』と言ってみてください」という提案をするのも不思議ではなくなりますよね。
VI Lovers 「カップルの謎」
私たちが最初に出会うカップルと言えば、父親と母親、祖母と祖父、叔父叔母…ということになり、その記憶が時を経て、私たちとパートナーとの関係に影響を与え続けることになるのは無理もないことです。
でも、それだけではありません。神代の時代から「カップルの謎」は、多くの神話や昔話の中に封じ込められています。幼い頃、何気なくふれてきた物語からも、私たちは知らず知らずのうちにカップルにまつわる様々なパターンをインプットしているはずですね。
あなたが無意識のうちに、自分の人生にプログラムしてしまったストーリーがあるかもしれません。たとえば「白雪姫」…、優しい生みの母が亡くなると、美しさで父親を惑わせ継母となるのは恐ろしい魔性の女です。かわいらしい「白雪姫」暗殺を試みるストーリーから、幼い私たちがインプットしてしまったことがいくつもあります。
「生みの母は女神、美しい継母は魔女である。」という…根拠がないけれども、強固な思い込み、成熟したセクシーな女性への恐怖と嫌悪感…、妻を失った男性はいとも簡単に誘惑され、骨抜きにされ、魔女の言うなりになってしまうものだという男性観…もっともっと!たくさんありそうですね。
タロットカードNO.6の絵柄にもなっていますが、人類のはじまり、創世記の「アダムとイヴ」のお話はどうでしょう?
エデンという楽園に住んでいながら、蛇の誘惑に負け、見れば見るほど美味しそうな「智慧の木の実」に魅せられ、アダムを説得し、先に「善悪の智慧の木の実」を食べてしまうのは、アダムの肋骨からつくられた従順なイヴです。
イヴの大胆な行動がなければ、神様から禁じられた実をアダムが食べることなどあるはずもなかったのです。夫であるアダムを神よりも優れた存在にしたいというイヴの猛烈な上昇志向に、いつのまにかアダムは従ってしまうのです。
「聖書」の物語によれば、私たちはみんなアダムとイヴの子孫ということになるのですよね。世界一有名なこのカップルからいったいどんな女性観、男性観が生まれるのでしょうね?ちなみにアダムに対する神様の罰は「労働の苦しみ」です。額に汗し、重労働に耐え、実りの少なさを嘆きながら日々の糧を得なければならない苦しみであり、イヴに与えられた罰は「生みの苦しみ」でした。
さて、日本における最初のカップルは「古事記」に登場する「イザナギ」と「イザナミ」ですね。 火の神を生んだイザナミは大火傷を負って亡くなってしまったのですが、妻を連れて帰ろうと…イザナギは黄泉の国へ行きます。天地創造を続けるためにはイザナミが必要だったのです。
イザナギは「黄泉の国の神様にお願いする間、のぞかないで待っていて下さい」とイザナミ言われていたにもかかわらず、そっと覗いたイザナギは虫がたかって腐りかかっている恐ろしい妻の姿を見てしまうのです。一目散に逃げ出したイザナギを恐ろしい黄泉醜女たちや魔物が取りついている妻が追いかけてくるのです…逃げて、逃げて、逃げて…今や何よりも恐ろしい存在は妻なのです!おぞましい形相の妻から逃れるためには、持っている財宝を投げ捨てるしかありませせん。
髪飾りや櫛を「食べ物に変われ!」と念じて、後ろへ放り投げながら逃げるのです。妻や魔物、黄泉醜女たちはイザナギが投げた〝食べ物〟を貪るのですが、貪りながらも追って追って追いかけてくるのです。そしてついにイザナギは大きな岩で黄泉の国に妻を閉じ込めてしまったのですが…恐怖の記憶は今も日本男性の中に残っているのかもしれませんね。
日本初のカップルは断固筆舌に尽くし難い物語です。大岩を挟んで夫と妻のコミュニケーション断絶で終わったわけですね。大岩の向こう側でイザナミは閉じ込められてしまった恨みを今も訴え続けているのかもしれません。イザナギの末裔だから無理もないのでしょうか? 妻にゾクゾクするほどの魅力というよりも、ゾクゾクっとした恐怖を感じる夫たちがどうも多いような気もしてしまうのですが…☆
昔話や神話にはよくあることですが、「イザナギとイザナミの神話」とそっくりなギリシャ神話があります。ここでも蛇が登場します。蛇にかまれて亡くなってしまった妻〝エウリディケ〟が恋しくて、恋しくて、恋しいあまり、夫であるオルフェウスは冥界の出口まで待つことができず、冥界の王ハデスの言いつけに背いて振り返ってしまうのです。
冥界に消えていく妻〝エウリディケ〟を永遠に失ってしまった〝オルフェウス〟の悲しみと嘆きが伝わってくるようです。
亡くなった妻を迎えに行くのですから、イザナギとイザナミの神話とそっくりですが、カップルの関係はまったく異質のようです。恐怖のゾクゾクか、妻の魅力に引き寄られてゾクゾクのしかたも違いますが、妻を迎えにいった理由もずいぶん違っているようですね。
私たちの無意識には、さまざまな「カップルの物語」を上映する夥しいスクリーンガありそうです。あなたのお気に入りのストリーは何でしょうか? ベスト3は3Dの大画面で、繰り返し。繰り返し、上映されているのかもしれませんし…☆
現実という意識の夢のなかで、いつのまにか主役を演じているかもしれませんよ。
カップルの謎は深まるばかりですね…☆
【 2014年10月15日 Mail Magazine 21 】
❤ Sophia のつぶやき 天海あまみ道子みちこ
大ヒットしたディズニー映画「アナと雪の女王」のテーマ曲、「♪~ありのままの姿みせるのよ~♬~ありのままの自分になるの~♬~♫~♪」という歌声が耳に残っている方も多いかもしれませんね。
ありのままでいられない日本人の心の叫びと、伸びやかな歌声が重なりあって、映画よりも「Let it go」というこの曲の方が大ヒットしていったような気もします。日本語訳がぴったりだったかどうかは別として、「ありまま」という言葉には魔力が潜んでいるようですね。
あのメロディーを聴いていると、なぜか私の胸のなかにも、生きていくエネルギーと夢や憧れが膨らんでいくのを感じるのです。
そのせいなのかどうかわかりませんが、「カップルセラピー」の現場でも「ありのまま」がブームです。「ありのままでいたい」「ありのままを好きになってほしい」という〝願望〟と「ありのままの私をわかってほしかった」「ありのままでいられなくて、苦しかった」という〝嘆き〟の声…、「ありのまま」はカップルの間でも魔力を発揮してはいますが…☆ここに!ちょっとだけトリックがあるようです。
「ありのままの自分」を伝えたいとしたら、かなりの努力と配慮が必要だということは忘れ去られ、「ありのまま」が、いつのまにか…面倒なことを避ける不作法さであったり、相手に対する配慮なしで済ます気楽さであったり、時にはわがままな態度とすり替わってしまったりしているようです。
こんな「ありのまま」が関係を冷たくしていくのは当然なのですが、気がついた時には2人の関係のなかで、〝夢やロマンチック〟のチクタク鼓動は止まり!息絶えてしまっていることも多いのです。
パートナーとの関係のなかでの「ありのまま」は〝ロマンチック時間〟の心拍を止め、夢もまた、息絶えてしまう〝罠〟でもあるのですね…なむあみ愚陀仏…★
では、胸のなかのエネルギーを呼び起してくれる「ありのまま」の光=魔法はどこにあるのでしょうか? それはもちろん!「自分自身との関係」のなかにあるということに、もうお気づきでいらっしゃることでしょうね。 あーめん…☆
自分自身をありのままに認めることができなかったり、ありのままの自分を自分が嫌っていたり、無視したり、責め立てたり、裏切ったり・・・実は私たちの日常は、そんなことを繰り返し、誰でもない自分自身を苦しめているのです。もし、自分自身の「ありのまま」を優しく受けとめ、誰よりも自分自身との いい関係を大切にすることができれば、胸の〝ロマンチック鼓動〟は復活し、夢や憧れを生きていくエネルギーも蘇りそうです。
私たちのカップルセラピーでは「フォーカシング」という方法を使って、まずは自分自身を「ありのままに」見つめることからスタートします。自分とのいい関係がベースにあるからこそ!パートナーとの関係に変化を起こしていくパワーがわいてくるのです。
「アナと雪の女王」の歌詞も、こんなふうに続いていました…☆
~♫~これでいいの~♬~自分を好きになって~♪~これでいいの~♬~自分を信じて~♪~
☆メルマガ講座『ゲシュタルト療法〝超入門〟』
~「ゲシュタルト療法って何?」と聞かれた時のために~
【 2014年6月6日 Mail Magazine 20 】
たとえばワークの中で、クライエントが「ボクは車を買いたいんです。でも、妻が反対していて…」という話をしている時のことを想像してみてください。この時に、ファシリテーターが、自分の耳に聞こえている「車を買いたい」「妻が反対している」という言葉だけをキャッチして、「それでは、あなたの目の前に椅子を置いて、そこに妻が座っているとイメージしてみてください」とエンプティーチェアを置いて対話が始まると、
夫「ボクは、車がどうしてもほしいんだよ。」
妻「何またバカなこと言ってるの?! そんなお金、あるわけないでしょ!」
F「いま、どんな気もちですか?」
夫「腹が立って、ムカムカしてきました。」
のような会話になるかもしれません。ここで夫が「ボクは、車がどうしてもほしいんだよ」と言っている時には、夫の心の中には、「あれにしよう」 と心の中で決めているトヨタ・プリウスのデモ映像が浮かんでいるもしれません。
この時、「今・ここ」に指向性が含まれることを知っているファシリテーターなら、エンプティーチェアを提案する前に、夫に「車を買ってどうしたいのですか?」と訊くかもしれません。この質問は、ちょっと聞くと「今・ここ」ではまだ起きていない将来のことを尋ねているように感じられるかもしれません。また、プリウスの映像がキラキラと浮かんでいる夫のイメージの中にも、今は見えていないことかもしれません。でも、ファシリテーターは「車を買いたい」という夫の心的事実に付随する指向性に関心を持ち、それを知りたがっているのです。
すると夫は、思い出したように「親の介護で、あまり外出もしない妻が心配で、たまにはドライブにでも連れ出したいと思って…」というかもしれません。それを聞いた、ファシリテーターはエンプティーチェアを夫の前に置いて、「介護ばかりであまり外出もしないキミが心配だ、と言ってみてください」と提案するでしょう。そうすると、
夫「介護ばかりで、外出もほとんどしないキミが心配だよ。」
妻「あなた、そんなに私のこと気にかけてくれているの? 嬉しいわ。」
F「いま、どんな気持ちですか?」
夫「なんだか、胸の辺が温かくなっています。」
というやり取りになるかもしれません。前の対話とは、全然ちがいますよね。
このように、ワークの場の「今・ここ」で起きていることというのは、物理的に目に見えているクライエントの表情や、耳に聞こえてくるクライエントの声や言葉、それに「今、何を感じていますか?」と訊いて聞こえてくるクライエントの感情・感覚だけでなく、そこに表れていない指向性も含まれるのです。いうまでもないことですが、注意が必要なのは、それは尋ねてみないとファシリテーターにはわかりようもないことなので、ファシリテーターが意識的にも無意識的にも「きっと…」と想像して決めつけないことです。
☆メルマガ講座『ゲシュタルト療法〝超入門〟』
~「ゲシュタルト療法って何?」と聞かれた時のために~
【 2014年2月22日 Mail Magazine 19 】
しばらくアップデートしていませんでした。申し訳ありません。今回は、
「2014年2月22日 Mail Magazine 19」「2014年6月6日 Mail Magazine 20」
「2014年10月15日 Mail Magazine 21」「2014年12月12日 Mial Magazine 21」
に掲載したもを、一挙豪華4本立て!でお送りします。お楽しみください。
19. 指向性 = 電車に乗るのは何のため…?
前回は、フリードレンダーの「創造的無関心」について書きました。クライエントが言っていることに対し「逆のことを言ってみてください」という提案は、ファシリテーターが〝0ポイント〟にいるからこそできる、ということでした。
今回は、現象学でいうところの「指向性」についてお話しします。これもファシリテーターの実験の提案に役立つ概念です。
題名に「電車に乗るのは何のため?」と書きました。あなたが電車に乗る時のことを考えてみてください。
あなたの目的は「電車に乗ること」でしょうか。遊園地の電車なら別ですが、たいがいの場合、電車はどこかに行くために乗るものです。私が新幹線に乗るのは、新幹線が大好きで乗っていること自体に無上の幸せを感じるからというより、名古屋や大阪に移動するためです。つまり、「今・ここ」で新幹線に乗るという行動をとる時、「名古屋に行くため」という現実がそこに含まれているのです。
このような心の中の現実を指向性と呼び、これも「今・ここ」にあるものととらえます。これを図に描くと、次のようになります。指向性は、この図の矢印の部分です。